どうして子供みたいなきれいな心のまま大人になれないのか。
子供は既成の価値観なんて始めは持っていない。
大人になるに従っていろんな考えを自分で選ぶ間もなく脳にインプットしていく。
そして感じることも身体に蓄積させていく。
子供って色々とやってみるし、イメージも豊か。
行動も愛に溢れてる。
なのに、周りの大人が子供の言動を自分の考えで判断、理解してしまう。
子供はそんなつもりじゃないのに。
でも周りの世界、大人がそういうふうにその子に対してあるイメージを持つと、その子はそれを信じる。
本人はそんなつもりじゃなくても、自分はそういう人なんだってアイデンティティーを形成してしまう。自己イメージがそうやってできあがってしまう。
それが汚れになる。
もちろんその逆もあるよ。
でも、今はこっちの話。
大人は自分の理解できる範囲内でその子を限定してしまう。
大人になって頭が固くなればなるほど、自我が脅かされることから自分を守るようなことをする。
カルチャーショックを受けるような人や出来事を排除しようとする。
生きづらさ。
人の勝手に作ったイメージを受け入れないこと。
反抗するとエネルギー使うから、ただ受け入れない。
競争社会でのドラマにはなるべく関わり合いたくない。
それは本人の自由。
でも私たちの社会は競争社会で成り立っているというジレンマ。
考え方の癖、マインドの根っこがそこでの価値観に汚染されてる。
この社会で生きながら巻き込まれないことは可能。
それは戦いでもある。
だって正直言って、これは偉大なる秘密だと思うけど、楽園はその外にしかないから。
そこの中にいては何も見つからないよ。
人間が作ったきまりはそんなに大切じゃないのに。
最近、ベストセラーになっているという、小池龍之介というお坊さんの本「考えない練習」「もう怒らない」という本を読んで、気持ちが楽になりました。座禅や瞑想をやっている人にとっては、決して真新しいものではないと思うのですが、宗教的過ぎず、客観的、実用的に書いてあって、とてもいい気づきになりました。この方は禅よりは原始仏教の考えだそうです。ヴィパサナーとの関わりが深そうです。イライラが少なくなり、周りにケチをつけることも少なくなりました。
返信削除私にとってのノイズって、コミュニケーションツールであり、周りに対してのディスコミュニケーションでもあります。ノイズのよって周りから隔離する感覚です。私はノイズはストイックなものだと思っています。ありえない位の大音量に中にいると、周りの人々の会話も聞こえなくなり、耳も麻痺してくると、やっと一人になれる。否応なく個と向き合わざるを得ない。そういった場を提供することが私の役目だと思っています
瞑想は自分の条件付けや、自分が自己同一化してるものに客観的になれるからいいよね。あと、社会的な時間から自分を離すことができるし。
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