2010年9月4日土曜日

ふぅ 



恋愛という幻想におちいるな、というきびしい倫理的な警告は、愛とは無縁の領域からやってくる。それらはエロスを謳歌する人生からのメッセージではない。エロスの価値を認めない人生から送られてくるメッセージだ。

(略)

少しでも魂に触れる生活習慣をもっていれば、それだけ、恋愛の幻想や正当化できない欲求を信頼することができるようになる。

ウィリアム・ブレイクはこう語っている。
「満たされぬ欲求を大切にする前に、揺籃の中の幼児を殺せ」。論理が知性を導くように、欲求は魂を導く。

われわれは論理を信じる世界に生きている。論理を信じるあまり欲求を信じようとしない。もし欲求を正当なものとして認める世界に生きていたなら、欲求をどうやって信じればよいかわかるだろう。

欲求はしばしば論理を捨てるようにわれわれに要求する。論理を重視する人々には愚かに映るかもしれない。エウリピデスは『バッカスの信女たち』の冒頭場面で、見事に愚かさの本質をついている。

まずディオニュソスの秘技を祝う準備を整えた高官の老人、ティレシアスとカドモスが女装で登場する。そして、現代不条理演劇に登場する道化者のような二人の人物のかたわれがこう言う。「われわれは狂った街に住む二人の正気の人間である。」

幻想の中でわれわれが言うべきなのは、このセリフなのだ。魂の観点に立てば、われわれの狂気は正気である。だからこそわれわれは狂気におちいるといえる。ディオニュソス的な人生は、非論理的なものに仕える人生であり、境界を侵犯し、熱狂を追い求めてやまない。



警戒心が自己防衛からくるものでなければ、幻想に飛びこんでも、文字通りの狂気におちいることはないだろう。狂気とは、自らの栄養になるものや喜びをもとめる魂の愚かさなのだ。

知性や観念が情報を必要とし、身体が食べ物や運動を必要とするように、魂は真の快楽と喜びを必要とする。魂は自らの幻想や真剣な遊び、あるいは意味深長なゲームに興じることを欲するのだ。

・・・(続く)



心理療法家 Thomas Mooreの著書より

4 件のコメント:

  1. ああもうこういうの読むと泣きたくなるよ。

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  2. よかった。時間かけて文字入力して。
    結局私自身のための文章を選んだんだけど、心配したよ。
    mikiちゃんは正直だね。それってダンサーであるための大切な要素なんだろうね。だって身体使うわけだからごまかしが効かない。頭の中だけですむことじゃない。多くの少女が夢見るだけで終わってるダンサーというものにみきちゃんはなってるんだから、それだけで自信もってください。
    本当にジャンさんの公演でもかっこよかったから。
    報われないわけないよ。
    だけど、ピンとくることがあったらそれも受け入れてみて。
    わたしも、たぶんたくさんの人達が自分の中のグルグル混沌としたものをないがしろにしがちだと思うから。

    日本の社会と関わりながら“魂”の働きも尊重することって、わたしはやれてる先輩達を尊敬する。日本、とくに東京は特別な場所。
    社会に関わらずにただ魂の欲求に従うって簡単なことだと思うけど、それも違うと思うし。
    精神病とみなされちゃったら人生もったいないし、海外彷徨って自分のアイデンティティを確立できないのも悲しいしね。

    わたしはmikiちゃんのプロとしての在り方を間近で見ながら色々と学んでるよ。
    よかったら本持って行くよ。
    響いてくる言葉がいっぱいの本です。

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  3. ありがとう。
    私Mihoちゃんの選ぶ言葉が好きなのでそのセンスがどこから来てるんだろうと興味あり。このblog、ちょっとした刺激になってる。
    狂った街に住む二人の正気の人間か。安心する。こういう文章。続き楽しみにしてます。

    本読んでみたい。ぜひ貸して!!

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