さて、OSHOの瞑想といえば、ほとんどの瞑想テクニックにダンスが取り入れられています。
今回のWSでも、1日目はボーンアゲイン瞑想の前にダンスタイムがあり、2日目のクンダリーニ瞑想の中でもダンスはあります。
OSHOの講話を弟子たちがまとめた本の中に『Meditation ~the first and last freedom~』という、OSHOの数々の瞑想法が紹介されている本があります。(日本語翻訳は『新瞑想法入門』)
その中に、ダンスについて書かれたところがあるので、ここに紹介させていただこうと思います。翻訳、ちょっと下手でごめんなさい☆
今回のWSでも、1日目はボーンアゲイン瞑想の前にダンスタイムがあり、2日目のクンダリーニ瞑想の中でもダンスはあります。
OSHOの講話を弟子たちがまとめた本の中に『Meditation ~the first and last freedom~』という、OSHOの数々の瞑想法が紹介されている本があります。(日本語翻訳は『新瞑想法入門』)
その中に、ダンスについて書かれたところがあるので、ここに紹介させていただこうと思います。翻訳、ちょっと下手でごめんなさい☆
瞑想としてのダンス
〜ダンスの中に消え去る〜
エゴの中心である踊り手を忘れて、ダンスそのものになってごらん。
“あなた”がダンスしているということを完全に忘れるくらい、深く踊りに入っていきなさい。そうすると、あなたがダンスそのものだということを感じ始める。
分かれているという感覚は消えていくだろう。そしてそれが瞑想となる。
もし、分かれているという感覚がそこにあれば、それはただのエクササイズ、体操だ。
それはただの深みのない単純なダンスだ。
ダンスそれ自体は良いものだ。
ダンスをした後は、リフレッシュして気分が良い。
しかし、それだけでは深みがない。
ダンサーはダンスだけが残るまで、消え去らないといけない。
So, what to do ?
全身全霊でダンスに入っていきなさい。
なぜなら、分離はあなたが全身全霊じゃない時に存在するからだ。
もしあなたが、脇に立ってあなた自身のダンスを見ているのなら、分離は残るだろう。
あなたはダンサーで、ダンスを踊っているにしかすぎない。
あなたは何か演技をしている。何かをあなたはやっている。
それはあなたの存在(being)ではない。
完全に巻き込まれなさい。ひとつになりなさい。
脇に立って傍観するのではなく、入っていきなさい。
それは“参加する”ということだ。
そう、だけど、それって簡単にできること? そんなに自我の解放って易しいこと?
ただ、OSHOの瞑想法は、抑圧してる感情を表に出したり、心の奥にある無意識かの記憶を呼び起こしたり、頭にばかり上ってしまうエネルギーを、ハートに降ろしたり... そういうことを身体への働きかけや、言葉を使うことで促します。それは、古代から受け継がれてるアートと、現代心理学でも使われている、科学に裏付けられたワークが融合したようなテクニックだったりします。
わたしがショックだったのは、インドのバラナシで出会った男性が見せてくれた、OSHOのコミューンで写したという写真(ほんとは写真撮影禁止です)。
わたしがショックだったのは、インドのバラナシで出会った男性が見せてくれた、OSHOのコミューンで写したという写真(ほんとは写真撮影禁止です)。
そこには、文明化されてるはずの西洋人が、どこかの部族の原住民みたいに激しく踊っている様子が写された写真。その踊りのすさまじいオーラまでも写ってるのを見て、ただごとではないな〜 と。
そして、何日か前に、バラナシでばったり再会したシンさん(『OSHOとの出会い②』を参照)に、その写真のことを話しました。
シンさんが言うには、「世界のレイブやパーティーシーンの発祥はGOAだから。」と。
GOAという街は言わずと知れた、70年代にヒッピーやパーティーフリークスが集まった街だけど、GOAはOSHOコミューンの西に位置するビーチ沿いの街で、コミューンのあるPUNEから1番近いビーチ。
サニヤシン達が、GOAで始めたパーティーが世界のレイブカルチャーの始まりだということ。
初期のレイブは、ダンスに深く入ることで、マインドと向き合いながら、自分の核の部分への旅を意識しながら踊ってた人がたくさんいたと聞きます。それがトランスなのであって、お行儀の悪いクレイジーなパーティーが、もともとのトランスパーティーなのではありません。
クラブカルチャーとして、ダンスがあって、会話があって、コミュニケーションとしてのパーティーも、都会的で好きだけど、それだけじゃもの足りないなぁ と、ただ思うこともあります。
そして、OSHOの瞑想は、慎重な人ほど向いてると思う。
例えば舞台や、人生そのものの舞台の中で、狂いたいけど狂えない、感情を解き放ちたいのに抑圧してしまう。
頭で考えるよりも、もっと身体に素直になりたい、最近いろいろと忙しくて、自分が何を感じてるのかわからなくなった .... どうにかしたい、という時に、他人は何もジャッジしない(他の人へのジャッジメントは、自分自身の瞑想の妨げになるという前提において)中で、安全が確保されてる場所でそれができる、という意味で。
meditation(瞑想)と medicine(薬)は、どちらも同じ語源のmediで始まる言葉。
そして踊りは、神様とのセックスだと思う。
(ハシオリスギ ☆)
ちなみにタイトルのランボーの詩。
ゴダールの映画『気狂いピエロ』の最後に出てくる詩。大好きな映画♡
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