2015年6月21日日曜日

クリシュナとラーダー 〜 恋愛から信仰へ〜

『ギータ・ゴヴィンダ』解説より


牛飼いの乙女ラーダとヴィシュヌ神の化身であるクリシュナの恋物語『ギータ・ゴヴィンダ』は、12世紀の東インドの詩人ジャヤデーヴァによるサンスクリット文学史の最後を飾る叙事詩である。


恋人に自分をおいてほかの牛飼い女たちと戯れるクリシュナに嫉妬し思い悩むラーダーは、親しい女友だちに心のうちを綿々と語るが、女友達のとりなしで、やがてクリシュナの心もラーダーのもとに帰り、両者は再び結ばれる、という比較的単純な内容から、サンスクリット語の可能性を極限まで追求したともいえる技巧によって独特の世界を創造し、普及の名声を残した。


この作品は、クリシュナ信仰の発展と並行して、インド全域まで広く愛され謳われた。後世への影響ははかりしれない。文学史、宗教詩の分野ではいうまでもなく、音楽、舞踊、美術に格好の題材を提供し、特に美しい細密画に彩られた多くの本が残されている。



1 作品の成立年代とその背景

  省略

2 作品の流行

15世紀までには、プリーで『ギータ・ゴヴィンダ』は非常に親しまれるものとなり、ジャガンナータ寺院に残された1499年の碑文は、『ギータ・ゴヴィンダ』が寺院の中で演じられていたことを記録している。


東インドの外への広がりについては、早くもグジャラート地方の13世紀末の碑文がこの作品の一節を引用しており、また15、16世紀に帰せられる、現存する比較的古い写本がグジャラート、ネパールに伝わっていることなどから、16世紀までには、『ギータ・ゴヴィンダ』 が北インド一帯に広まっていたことがわかる。


16世紀初めには、熱狂的なクリシュナ・ラーダ信者であり、後にはクリシュナまたはクリシュナとラーダーの化身ともみなされるチャイタニアが、プリーを訪れ定住する。彼の伝記は、チャイタニアが『ギータ・ゴヴィンダ』をとても愛し尊んだことを伝えているが、このことはその後この作品の歴史に大きな影響を与えた。チャイタニアの弟子たちは、クリシュナが幼・少年期を過ごし、ラーダーとの恋の舞台ともなっているブラジ地方に移住した者と、ベンガル・オリッサ地方にとどまった者に分かれたが、両派においてこの作品の様々な神学的解釈が試みられた。また、チャイタニア派の影響を受けて、ベンガル地方の仏教タントラの伝統とクリシュナ・ラーダー信仰を融合させたサハジャー派では、この作品は聖典の一つとされている。

南インドにいつ頃伝わったのかは定かではないが、南インドのヴィシュヌ・クリシュナ信仰の聖典であるアールワールの詩や『バーガヴァタ・ブラーナ』とともに、『ギータ・ゴヴィンダ』はバジャン(神への讃歌などで信仰心をたかめる集会)や舞踊・音楽において好んで取り上げられる作品の一つとなっている。

3、4、5も省略
男と女の秘密が書かれてるので、ここでは割愛します ♪


6 クリシュナとラーダー ----  恋愛から信仰へ

(略)
ジャヤデーヴァが『ギータ・ゴヴィンダ』にどれほどの宗教的な意図を込めたかは読者の判断にまかせたいが、ただヒンドゥー教においてはエロスとバクティは決して矛盾するものではない。それを端的に示すのがこの作品、恋愛の精髄を嫉妬や苦悩とともに官能的に描き出しながら、同時に信仰の書ともされる、この『ギータ・ゴヴィンダ』であろう。


なんとなくノリで始めたこの企画だけど .....
ベンガル地方のチャイタニア信仰の...  って、わたしが滞在してたインドの村の辺りのことで。
直感的にわかってはいたけど、サンスクリット語もベンガル語もわからないし、その村の土着的な信仰について、何が根拠になってるかなんて、聖人チャイタニアが住んでた土地なこと、ヴィシュヌの化身であるクリシュナ信仰、そしてベンガル州ということもあってカーリー信仰も強いところで、くらいしか知らなかった。

音楽は朝夕、バウルの音楽やバジャンがいろんなところから聞こえてくるし、村に住んでる人たちとのやりとりも、まるで戯曲のようで。美しいバラモンの少年と、村の人たちに「マハラージ」と呼ばれるそのお父さんとの生活は、まるでおとぎ話のようで、『ギータ・ゴヴィンダ』のような聖典が親しまれる中で育まれてきたカルチャーだというのはすごく納得、なのです。


そのうち『ギータ・ゴヴィンダ』ツアー やりましょぅ♪



(『OSHOとの出会い』の続きは、それほど反響あるわけではないので、なぜカミングアウトしたのか意図も受け取っていただけたのじゃないかなぁとも思うし、また機会やご要望あれば .... ということで保留 ♪)

最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
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