2010年10月5日火曜日

バター

チラシのことをやろうと思ってるのに、パンを食べるのとブログ書くのにはまってしまってる。
わたし、8枚切りの食パンにバターいっぱい塗って食べるのが好きなの。
フランスパンだったらバターいっぱいつけて、ココアがあればもう何もいらない。

高校生のとき、学校の近くの日仏学院に通ってた時期があって、そこのフランス人の先生が「ラディッシュに切り込みを入れて、そこにバターをはさんで塩をつけて食べる。」っていう話をしていて、バターはフランスでは食べるという感覚だっていうのを聞いて驚いたことがあるけど、今はその感覚わかる。

そういうことをバターのたっぷりついたパンを食べながら思い出してたら、私って、私立の高校に行きながら日仏学院まで通わせてもらってたんだ、と今更ながら思った。
それも高校は街のど真ん中だったので、バス代も一日千円くらいかかってた。

わたしが高校生のときって父と母が別居してて、父親がうちにいなくて母親は精神的にも楽じゃなかったはず。

わたしって大学も途中でやめちゃうし、本当に親には苦労ばかりかけてる。

乳製品食べてたら母親の愛のようなものにつながりやすいんだよ、わたし。
赤ちゃんみたいで恥ずかしいんだけど、クリームとかバターとか牛乳ってお母さんの愛情が恋しいときに無性に食べたくなる。

母親がよく作ってくれてた朝ご飯にパンケーキがある。
小麦粉と砂糖と牛乳と卵を混ぜて、バターで焼く。それに、バターと蜂蜜を載せて牛乳と食べる。
子供大好きでしょ、そういうの。
わたしも大好きだったのそのパンケーキ。パンケーキのもとなんて使われたら、もうすねちゃう。

時々そのパンケーキがどうしても食べたくなって、自分で作ることもある。

それを無心に食べていたら、パンケーキほうばりながら「おかーさーん」って泣き叫んでいたりするんだよね。

バカみたい?

わたしの愛しい人はお母さんに子供の頃に弟と一緒に捨てられてるの。
めちゃめちゃ不良でつっぱってるけど、傷が深いんだな。
世間から外れがちで危ういんだけど、母の愛っていう支えがないと人は自分のことを価値のある人間だってなかなか思えないものだ、と思う。

究極的には、自分を認めるのは自分自身しかいないっていうところなんだけど、そこまでの感情のプロセスが紆余曲折、七転八倒なのだと思う。
どうぶつかればいいんだろう。
って自問するといつも行き着く答えは“自分自身”。
結局は私自身のゲシュタルトの問題なんだろう。
自分の中に同じような要素がないと、他者のそういう要素には気付かない。

ロールシャッハテストで、例えばその絵が女性の顔に見えたとしたら、なかなかその絵が見方によってボトルの絵にも見えることに気付かないように、人は心のフィルターを通して外の世界を理解してる。

この世界って個人の複雑なコンプレックスによって様々な世界が存在するんだと思う。
それはインド哲学では、アートマンはブラフマンだ、と言われる。


「ひかりはないけど、のぞみはあります。」
って言ったのはユングを日本に初めて紹介した心理分析家でもあり、日本うそつきクラブの会長でもあり、最近まで文化庁長官もされてた今は亡き河合隼雄さんのお言葉(おやじギャグ?)。
ドキッとするけど、新幹線のことだよ。

うう、チラシやらなきゃ。
そうそう、日焼け止めクリームがなくなったから外に出たくないんだよな。

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